vividman’s diary

パーキンソン病の父のこと

点滴だけに。

ここ1〜2ヶ月、肺炎を起こしては治り、を繰り返していた。意識はあるのだが、目を開けて私たちを見ることができなくなっている。

昨日、母がお見舞いに行き、これ以上肺炎を繰り返すのは本人が辛いだけ、との医師の判断で、点滴だけの処置になったと聞いた。今のうちに近い人は会っておくように、とのこと。年が越せるかどうか、と思っていたが、もはやこれまでか?

肺炎

今日、病院から電話があり、先生から説明があるので来るようにとのこと。ちょうど一ヶ月前に肺炎にかかっていると知らされて以来の面会。一度は治ったものの、また夕べから熱が出ているので、経管栄養を止めますとのこと。

 

5分ほど面会できたが、ずっと眠ったままだった。

肺炎2

病院で説明を聞いてきた。

肺炎を起こしているが、熱も出ていない。レントゲンでは右肺がもやっと白くなっている。それ以外は異常なし。看護師さんによると、熱を出して抵抗する体力もないのかもしれないし、今後治るかもしれないし、なんとも言えないとのこと。

主治医の先生の話では、ともかく今後どうなるかはわかならいが、急変することも大いにあるので覚悟を、ということだったと思う。

一瞬だけ面会できたが、眠っているのか起きているのかよくわからない状態。目もあまり見えていないのでは?という感じだった。幸いだったのは特に苦しそうにもしていないこと。

 

コロナで親戚などが面会できないのが残念。

 

急に容態が悪くなった時に慌てないよう、葬儀の準備も少しずつ始める。

未だ面会禁止。父の筆跡。

コロナの影響で、世の中はだいぶ自粛緩和になったものの、面会は原則禁止。だが、先日口腔ケア用品を持って行った時、週に一回くらい短時間ならば大丈夫とのこと。

前回用事で行ったときに少し会わせてもらったが、眠っていて起きなかったが、ひげもきれいに剃ってもらっていたし、顔もきれいになっていた。とてもよくしてもらっているようで、感謝。予期せずN病院に入ることになったが、結果的に自宅での介護の苦労もなくなり、良かったのだと思う。

 

昨日、父の部屋を片付けしていて、父が自伝のようなものを書いていたはずだと思いだし、パソコンの中を探してみたらあった。生まれてから結婚前までで終わっていたが、それがたったA4用紙3枚、というところが父らしいと思った。

理系で、小説などを読むのが苦手で、ラジオを作るのが趣味だったので学校の先生になろうと思った、という人。自伝も、断片的に覚えていることの覚書のようなものだった。

日記というか手帳のようなものも出てきた。文字がだいぶ書けなくなっており、頭も怪しくなっているようで、それでも何か書き留めようとしたらしい痕跡に涙。

かつてはパソコンで町内会やら科学館やらの文書も作りまくっていた父。うつ病と診断されたあたりから、パソコン操作がわからないといい、何度教えても理解できなくなってしまった。

祖父母の何回忌がいつ、という表がエクセルで作ってあって、そこに父の兄の分も記入してあるので、2012年まではまだ大丈夫だったようだ。

2013年に私が手術した時は、福岡まで車を運転してきていたが、時々道がわからなくなっていたという。

 

身内にとっては、あっという間に寝たきりになってしまったような感覚。特にこの2年くらいは早かった。・・・涙ばかり出て書き進められないので、今日はここまで。

転院

4/28、コロナ騒ぎの中、急性期病院から療養型病院へ転院。

いろいろな手続きの後、少しだけということで久しぶりに父と面会した。

最初はわけがわかっていない感じだったが、母があれこれ話すうちにだんだん理解したようだ。

病院での説明を聞いている間、ああもうここから出ることはないのだな、と思う。

延命治療もさほど行わないということで了解する。

コロナで面会できないのが辛い。

せめて数日おきにでも顔を見に行ければいいのだが。

覚書として(パーキンソンの父のこと)

パーキンソン病で闘病中の父のことを、覚書として書いておきます。

 

3月23日に発熱と息苦しさを訴えたので久しぶりに入院した。

ここ数ヶ月は、ショートステイと自宅療養でなんとかやっていたが、おむつ替えや食事の介助が大変になってきたので、有料老人ホームへの入所を急ぎたいと話していた矢先だった。このコロナ騒ぎで面会はほとんどできない。もし院内感染がおきて父が感染するか、逆に私や母が感染するかすれば、このまま父とは死ぬまで会えないかもしれない、と思うと辛い。

4/7におむつを持って行ったら、少しだけ、ということで面会できた。父は口を開けて(閉じることが難しいようだ。)寝るので、口の中がカラカラになっており、経管栄養になっているので歯磨きもしてもらえないのか、歯のまわりが真っ黒になっていた。急性期病院なので手が回らないのはわかるのだが、もう少しなんとかならないのだろうか。

 

父に最初に異変があったのは、2012年か?「死にたい」と口にするようになり、うつ病と診断されてから、それまで沢山やっていた趣味や町内会の仕事を全部やめた。ほとんど外出することがなくなり、ぼおっとしていることが多くなった。

 

2015年にやっと運転免許を返納してくれたが、運転をやめさせるのは大変だった。やることがなくなった父は、運転だけが生きがいになってしまっていた。軽い事故を何度かおこし、助手席に座るのが恐ろしいレベルの運転しかできなくなっていたのに、絶対に自分ではそれを認めなかった。その頑迷さに私は認知症を疑っていたが、そうではなかったようだ。運転をやめてしばらくして、歩き方がおかしくなった。文字が書けなくなった。よく転ぶようになった。母が、パーキンソン病だった祖母によく似ているというので市立病院に連れて行ったが、パーキンソン病との診断はおりなかった。運動療法でしばらくリハビリをしてみることになった。

 

国立病院でパーキンソン病の診断がおりたのは1年後くらいだったと思う。手の震えがないことが、パーキンソン病ではないと思われていた一番の原因だったが、他の症状がパーキンソン病によく似ているので、投薬をしてみて効き目があったらパーキンソン病でしょう、ということだった。最初に薬をもらった日、私が帰宅したら、父がテレビで相撲を見ながら笑っていた。そんな表情を見るのはずいぶん久しぶりで、これはやっぱりパーキンソン病だったのだ、と思ったことをよく覚えている。

 

今まであまり記録をとってこなかったので、いつ、どんな状態だったかが覚えている範囲でしか書けないが、メモなどを見ながら少しずつその後の経過を書き留めていこうと思っている。